ジムや外岩で知り合いクライマーの仲間ができる。
自分はリードクライミングを中心でやっているので、ごく特殊な例外を除いて、パートナー=ビレイヤーがいないとクライミングができないから、クライミング仲間の存在はとても大切である。
仲間が大切なのは、単にビレイしあうという「機能」面においてだけではない。仲間は、クライミングの枠組み(目的と価値の基準)を共有し、そこにおいてお互いの行為がもつ価値を認め合うためにも、不可欠の存在である。つまり、仮にソロクライミングしかやらないクライマーだとしても、やっぱり仲間は必要なのだろうということだ。どんな行為でも、枠組みを共有し相互に承認しあう仲間を求めることは人間の本質的なあり方である。
実際、機能的にはひとりでも問題のないボルダリングであっても、深くコミットメントしているボルダラーで、だれとも交流せずに完全にひとりだけで登っている人は、まずいないはずだ。
登るときは1人であっても、たとえばブログでそれを公開する。ブログで自分のクライミングを公開する行為は、(直接会ったことはなくても)同じ行為を追求している広い意味での仲間に認めてもらたいという、承認欲求から発しているものであることはいうまでもない。
もしクライミングという枠組みから離れれば、その仲間もまたいなくなるだろう。もちろん、クライミングの仲間が、クライミングという媒介がなくても付き合える友人になるということも、あり得る。だが、それは偶然的な例外だろう。とくに歳を取ると、新しい友人というのはなかなかできなくなる。若い人と違って、それぞれの生活が確固としているからかもしれない。
子ども、というものは、この社会ではもっともわかりやすく強力な幸せのシンボルである。また、結婚すれば「できて当然」のものだと考えられている。
しかし、たとえば子どもの写真がプリントされている年賀状を出してくるような友だちとは、やっぱり徐々に疎遠になってしまう。もちろん、仲の良い友だちが妊娠・出産すれば心から祝福する。しかしそれでも、そのうち自然と話が合わなくなり、なんとなく付き合いづらくなってしまう、ということはある。特にそれを妬んだり僻んだりしていなくても、ただ「自然と」疎遠になっていくことで、ああ私たちはそういう、世の中の幸せというものから「自然に」遠ざけられていくんだな、と実感する。
実際に私は、子育ての苦労とか、PTAのお付き合いとか、そういう一切のことをまったく知らないまま生きているので、もし友だちとみんなで話しててそういう会話になったら、もう黙り込むしかない。『断片的なものの社会学』(岸政彦、朝日出版社)
昔に比べれば、中年になっても独身で子どもがいないという人は、だいぶ増えている。とはいえ、やはり圧倒的に少数派であることは間違いない(全年齢を通じた単身世帯の比率は、約4分の1程度だが、若者や高齢者も含むので、中年だけに限ればもっと少ないはず)。
そして、岸さんのいうとおり、そのような立場から見ると、子どものいる人に対しては、「特にそれを妬んだり僻んだりしていなくても、ただ「自然と」疎遠になっていくことで、ああ私たちはそういう、世の中の幸せというものから「自然に」遠ざけられていくんだな、と実感する」ことは、本当にしょっちゅう、ある。
自分の場合、子どもを持たないどころか結婚すらしていないから、夫婦であること(人)の幸せの有り様からも「自然に」遠ざけられていると感じることもよくある。世の中のサービスや情報の多くは「家族」とか「カップル」という単位を前提として提供されているものが多くて、たとえば、ポップミュージックの99%は恋愛をテーマにした歌詞であるとか、あるいはテレビドラマにしても「家族」とか「カップル」をテーマにしたものばかりだ。それはそういう人たちが多数派であるから、当然だけど、(たぶん死ぬまで)単身であるだろう自分にとっては、それらの多くは「別の星の話」くらいに関心を持てないものではある。
それは岸さんがいうとおり、妬みとか僻みということではなく、そういう幸せの有り様は自分とは関係ない世界だという「距離感」である。同書を読みながら、岸さんに対してさえ、そういう埋めがたい距離感を感じたものだ。
しかし、クライミングという枠組みに属しているおかけで、そのような社会的な関係性とは別の関係性の仲間を持つことができる。「世の中の幸せというもの」とは関係の無いところでの、幸せや価値を共有できる。それは、「世の中の幸せというもの」とは遠いところに来てしまった自分には、有り難いことだなと思う。
ただしそういう関係は、自分がある程度熱心にクライミングに取り組み、その価値観に帰依している間のことだけのものであることも、また自明だ。もし自分がクライミングから離れれば、クライミング仲間とも当然に疎遠になっていくであろう。
一期一会、行雲流水。そうして人は生きて、死ぬ。